
「渋井總斎伝 御用の人」から学ぶ - とりあえず名無し
2026/01/23 (Fri) 12:22:29
「景仰」から学ぶと同じように
救世教以外の教団で 先達のことに触れられる(学べる)機会が多い方は 少ないと思います。中には 触れてはいけない教団もあります。
本当は手に入れて 読んでいただきたいのですが 触れられない方のために 少々紹介したいと思ってます。
もっと先達のことを 学んでもらえれば幸いです。
皆さん方からの投稿も歓迎します。
Re: 「渋井總斎伝 御用の人」から学ぶ - 渋井總斎の弟子、小山美秀子
2026/01/24 (Sat) 08:03:46
673神も仏も名無しさん
垢版 | 大砲
2020/07/16(木) 11:30:44.99ID:VqrqmOYR
渋井総三郎の弟子にあたる
大久保正治 教祖改名:政治 明治40年 北海道生
若くして上京し、洋服店(テーラー)を営んでいたが、胃潰瘍に
なったため、そうめんしか食べられず、栄養失調になる寸前だっ
た。縁あって渋井治療所で浄霊を受けだが、快調したため34才で
入信し、専従者になった。42才で府中市に大恵中教会の経営を
任された。講師も務めていたがそんな時、郷里の北海道から近親
者(おそらく両親のどちらか)危篤の電報が入った。しかし、大久
保は親族の死に目を軽く考え、帰郷することはなかった。その時
の大久保の言葉である。
「講習は明主様から与えられた重大な神業です。しかも大勢の
人々が救いを求めて集まっておられるんだから、いくら身内とは
いえただ一人のためにこれを止めて行くわけにはいきません。」
と言い放っていた。郷里の同業者である専従者にアドバイスをする
など、講師として自分の考えを主張していたが、親の葬儀にも
参列しないようなものが呪われないはずもなく、親や親族、先祖
を敬うという世間の常識すら無視し、蛇神信仰を貫いた大久保は、
昭和30年一月、浄霊し続け、教えを教授する立場にありながら、
48才という若年で呪われて夭折した。
691神も仏も名無しさん
垢版 | 大砲
2020/07/29(水) 11:15:48.05ID:AGA3TgXS
岩松 栄 明治39年 千葉県生
長女が右足のカリエスになり渋井の紹介で宝山荘に出向き、
教祖から浄霊を受けたが快調したが、疑念を持っていた。
その後、入信講習を受けて洗脳されていたが、
そんな時に渋井から全財産の献金を勧められた。
岩松は親の財産で生活できていたからだ。
その時の渋井の言葉です。
「今あなたは暮らしに困ることはないが、親から受け継いだ
財産があるからでしょう。神様はそういうものを持っている限り
金銭のお恵みは下さらないものです。そういう財産は他人の恨みや
うらやみ、ねたみが込められている。だから他人の喜ぶ綺麗な
ことに使ったり、世の中を救う神様の御用に使わせていただく
ことにしてください。神様はそういう人を決して困らせるよう
なことはしませんよ」と語っていた。
そんな時に、世情は戦時下に入り、物資不足が続いた。
岩松は財産がなければ飢え死にか、自殺していたかもし
れない状態になっていた。
Re: 「渋井總斎伝 御用の人」から学ぶ - 真実ですか?
2026/01/23 (Fri) 22:50:46
日本観音教団管長
日本五六七教管長 歴任
渋井総三郎(教祖改名:総斎) 洋服商 52才 埼玉県村君村出身
昭和13年 春 入信
洋服商で成功し、アジア各地や欧州に視察旅行にいくほど、
事業に成功して余裕があった。
教祖の講話を聴いて洗脳された渋井は、
新宿区内の持ち家5軒の内の2軒、1000坪の別荘、杉並区内の貸家十数軒を売却して
教祖に献金した。
新宿の自宅を改造し、一階が洋服屋、二階が住居、三階が治療所として専従になった。
大勢の信者を集めたが、
教祖は
「こんなに大勢の人を、渋井はどのようにして治療するのかな。これは渋井でなければ
できない芸当だ。」と評している。
ID:7TKBtFIm(1/3)
垢版
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0632 神も仏も名無しさん 2020/06/30(火) 18:05:17.05
信者でごった返す店舗併用住宅は日曜祭日も稼働し、朝から晩まで休みも取らず食事すらろくにとらないで
夏場は汗だくになり、冬は極寒の中、浄霊し続ける日々が続いた。
昭和17年警察は薬事法違反、不経済などで渋いを検挙した。
教祖のためなら獄死をしてもいいというほどに洗脳されていた。
渋井は正座させられ膝に重し石を置かれるなどの拷問わ受け、殺人犯並みの独房で住居し、
前身がシラミだらけになり、おまけに後頭部の下側、首の後ろに大きな水疱ができ、
膿がたまっていた。
この状態で教祖は
「いくら渋井でも、拷問には勝てないだろう。」と発言している。
ID:7TKBtFIm(2/3)
垢版
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0633 神も仏も名無しさん 2020/06/30(火) 18:41:40.88
渋井は、明治19年生まれだが、旧制中学を卒業している。
浄霊の効果も優秀で、信者から頼られていたようだ。
先達書 p.134〜
120才まで生きると虚言していた教祖が72才で早逝してから三か月後、
渋井は三度も脳溢血で死にぞこなったが、浄霊に頼るも虚しく、
四度目の脳溢血の発作が彼を襲い、「十万億度の旅に出る。」と意味不明な言葉を発しながら、
寿命を真っ当できずに、70才で病死した。
先達書 p.461〜
蛇神信仰者の末路として、お手本となるような、見事な惨死だった。
ID:7TKBtFIm(3/3)
垢版
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0634 神も仏も名無しさん 2020/07/02(木) 00:12:27.84
なんやようわからんか頑張ってくれw
ID:h+7jYySi
垢版
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0635 神も仏も名無しさん 2020/07/02(木) 10:59:37.83
岡田茂吉を信じ、
全生涯をかけた人達の運命とその悲惨な人生の終焉を
晒しています。
自分の所属している支部の信者達を見ても
似たような悪運で下降していく人生になっている。
こういう人達がほとんどなんだろうが、表には出てこない。
ID:TWaM4xEI(1/2)
垢版
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0636 神も仏も名無しさん 2020/07/02(木) 11:32:17.14
633
教祖にほだされた渋井総三郎は財産を教祖に奪われ
サド茂吉の舎弟として富裕層であり、悠々自適の生活から、
一転、貧乏な丁稚奉公の小僧となり、サド茂吉の奴隷になった。
そして、刑務所で自らが死後受ける罪過を生前体験し、
頭破七分して脳内出血の連鎖に陥り、発狂寸前で教祖の赴いた地獄界
の蛇神の元へと召された。
渋井は信者なら誰もが知る初期専従者である。
この哀れな悪運に取り憑かれた半生は信者が離れていく大きな原因となり、
教祖の頓死と共に信者の激減に繋がった。
先達書のp.461に
こんなことが書かれている。
渋井の長女である渋井玉子はその父の惨死の後に、吉夢を見たということである。
「父が元気な若々しい姿で、なんとも言えない宏壮善美な邸宅に住み、喜びに満ちていた。」
ということだが、
これも苦笑せざるを得ない。
以前、天国の天人化の説明の部分と同じであり、教祖が治療した肺病の娘がその後、死んだ
が天人になり、十二単衣を着て現れたという作話と同じであって、
教団による事実を直視させないためのエセ小話に過ぎない。
ID:TWaM4xEI(2/2)
垢版
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0637 神も仏も名無しさん 2020/07/02(木) 15:31:47.85
まー、浄霊で治ると言いながら
治らず亡くなったら今度は「浄霊で霊が清まったから
天国に行きますよ」と言うのも
ふざけた話だな
ID:Q0UAWCtJ
垢版
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0638 神も仏も名無しさん 2020/07/03(金) 10:28:47.55
聖観世音菩薩から万病を癒す不思議な霊力を授かったというのが、
岡田式心霊療法の宣伝文句でした。これが警察に目を付けられる誇大宣伝広告として
詐欺的要因としてあげられる。浄霊で霊が清まれば全身の病がことごとく癒えるという理論で
すから、治らないで死んだ人達が天国になど往かれるわけがないのです。
上の渋井総三郎の話しにしても、教祖の出鱈目な理論を盲信したがための悲惨な結果であり、
長女が夢で見た光景が霊夢であると思わせる記述になっているが、死後間もない人が霊界で
そういった姿になるということは有り得ないことである。
もし夢で見たのなら、教祖と出会う前の豊かだった渋井家の最も幸せだったころのことを思い出し
て夢に見たのでしょう。長女であれば、大きな立派な別荘で過ごしたお父さんとの思い出が
懐かしく思われ、走馬灯のように想起されたに違いありません。
楽しかった幸福だった家族との日々を、現実に無残な死に方をした父親を目の前にして
また葬儀と火葬を経て、深く思い起こしたということだと思います。
Re: 「渋井總斎伝 御用の人」から学ぶ - とりあえず名無し
2026/01/23 (Fri) 12:24:26
絶え間ない浄霊活動
さて実際の浄霊だが、總斎のもとで幾人かの男女の弟子たちが助手として手伝いをしていた。まず最初に助手の"下浄霊"が行なわれてから總斎が浄霊をするのだが、患者は相当の順番待ちの時間を経てやっと待望の浄霊となる。
普段は住居としている二階で、弟子から"下浄霊"をていねいに施される。これは約十五分くらいである。そして、三階へ上がると總斎が明主様ご揮毫の観音像を背に坐っており、一対一の浄霊を取り次がれるのである。總斎の浄霊は通常三、四分位の短い時間であった。しかし、なかにはもう少し時間のかかる者もいる。
当時、角筈で總斎から直接浄霊を受けた者は、
「こんなことで大丈夫かなと思いましたが、その三、四分の浄霊が次々と神秘的な奇蹟を生み出していく現実に、人びとはみな大きな喜びと希望を得ていかれたと思います」
と、述べている。狭い部屋には治療待ちの男女がつめかけ、
「はい、これでいいでしょう。さあ次の方」
という状態で、その間ほんのわずかの時間なのだから、川端の言葉どおり、サクラかいたのではないかとの疑念を抱くのも当然といえば当然である。しかし總斎の浄霊の力は人びとの想像以上のものであった。時間か短いからといって手を抜いているわけではない。この短い時間で患者は痛みがなくなり、よくなっていくのである。
一日百人以上の患者を浄霊するのであるから、仮に一人に対して浄霊を施す時間を平均五分として計算しても、八時間以上必要である。これは浄霊に専念している時間であるから、患者の交代にかかる時間やその他、所用の時間を加えれば、ほぼ十二時間、一日の半分もの間總斎は浄霊にかかわっていたことになる。これではお茶を一服する時間すらなく、ましてや食事を摂ることもできない。順番待ちの患者が治療所に溢れており、列をなしているのだから、ゆっくり休憩をとるような場所も時間も總斎にはなかったのである。このような時でも總斎はいささかの渋面をもみせず、患者を浄霊をし続けた。しかし、助手をしている弟子たちはたまったものではない。毎日お腹か空いて本当に困ったという、当人たちには笑うに笑えない話が残っている。
浄霊の時間は原則として朝九時から午後五時までであった。しかし、朝早くから順番待ちの患者がいっぱいであったし、患者はひきも切らずに訪れるので、夕方も結局は七時、八時頃まで浄霊していた。もちろん角筈の治療所が、最初からこのように盛況であったわけではない。最初は日に一人か二人であったのだが、奇蹟を眼前に見た人が多くなって、評判が評判を呼び、ついには自宅改造ということにまでなったのである。
新宿・角筈の自宅を改造して治療所としていた頃、明主様は近くまでお出ましの折は、總斎の治療所にお立ち寄りになることがしばしばあった。明主様かおいでになる日も治療所は患者で溢れ、文字通り立錐の余地もないほどの混雑であった。あまりに忙しく人が多いので、申し訳ないことではあるが、明主様に座布団を用意することすらできぬ有様であった。
總斎が角筈の治療所に溢れる人の群を次々とさばき、さながら流れ作業のように一瞬の休みもなく浄霊を行ない、夜は、頼まれて水戸まで行った徹夜の出張浄霊の話を助手の進藤玉枝からお聞きになられた明主様は、ただ一言、
「これは渋井さんだからこそできる芸当だね」
と、おっしゃりながら、相好をくずしてお喜びになられたという。明主様のその時のお顔は、
「どうだ、おれの弟子はたいしたもんだろう」
と、快哉をお叫びになりたいような、こ満悦の様子であったと伝えられている。
布教の"力"
布教の最前線に立っていた直弟子たちに範をたれるべく、總斎自身も積極的に毎月地方に出向き、また、地方の幹部の要請に応えて講習会に飛び回っている。そして、總斎が出向いた地方では、信徒がまさに爆発的に増加した。各地で總斎による入信講習が行なわれ、總斎の浄霊で難病か治り、素晴らしい奇蹟か数限りなく起こった。この結果、凄まじい勢いで教線は伸び、北海道、東北、関東、東海、中部、北陸、関西、四国、中国、九州と全国各地に人類救済の拠点が拡げられた。しかし、總斎の苦労はたいへんなものであった。要請があればどんな遠方でも、交通の不便な所でも講習に出かけていったのである。
また、地方で講習会があるという連絡が入ると、自ら進んで出向くこともあった。病める人には、心を込めて浄霊をし、悩める人には優しく、時には厳しく導いた。總斎に接する人すべてが温かいものに包まれた。その結果、總斎はまるで慈父のごとく慕われ、また總斎を通じて多くの者たちが明主様への信仰を深めていった。總斎を慕う者はその想いを御神業、布教に励むことによって満たし、總斎の手足のごとく働くようになった。
なぜ總斎にこのようなことができたのであろうか。これは、總斎の明主様を絶対無二の存在と確信する"熱い想い"が多くの人びとに理解され、伝わっていったからである。そして、總斎は、明主様のみ教えを多くの人びとに伝える素晴らしい"力"を持っていたということでもある。当時の信徒の多くは、總斎の浄霊の素晴らしい"力"に魅せられたと同時に、總斎の明主様を想う無私の心に感動、共感をおぼえたからこそ入信したに違いない。
実は總斎の話はそう上手くなかった。しかし總斎が発する言葉には人を魅了し、心を動かす不思議な力が具わっていたようだ。總斎の講話を聴いた者はその話に吸い込まれ、引き込まれていくようだったという。そして引き込まれていったあと、おのずから感謝の心が育ったのである。
ある専従者は言う―。おそらく、總斎は信徒を指導するということは考えていなかったのではないか。ただ自分が明主様に魅かれたその想いを、見知らぬ人に伝えたかった。明主様と共に人びとを救わせていただけることが自分にとっていかに幸せか、楽しいかを接する人びとに伝えたかったにすぎない。總斎は明主様と共に生きることで、自身をとりまくあらゆる環境と調和している。その調和のリズムは御神業の発展となり、喜びであり、幸せを感じたであろう。總斎は、自分が今いかに幸せであるかを包み隠さず人前にさらしたのである。その実直さは聴く人の感動を呼び起こし、話を聞いて自分もそうなりたいという想いが人びとの間に広がったのであろう。
いや、そればかりか、その奇蹟の場に巡り合わせた多くの信徒とも總斎は溶け合っていたのかもしれない。だから總斎は饒舌に語ることもなく、正しい信仰を人びとに伝えることができた。
Re: 「渋井總斎伝 御用の人」から学ぶ - とりあえず名無し
2026/01/23 (Fri) 12:23:26
無私の精神、身をもって示した御用
「笊で水を汲んでみよ」
禅問答のような明主様のこのお言葉は、このご面会の数日前に教団最高幹部が集まった席で発せられた。居合わせた幹部たちはいかに明主様のお言葉とはいえ、とうてい無理な話で、いずれ何らかの説明があるものとおもっていた。
これは昭和二十二年頃、東山荘での「五六七会」ご面会時に明主様が話されたことです、と当時を回想しながら大武一雄が語ったことである。
ご面会場の信徒たちもみな、笊で水を汲むことなど不可能だと思っていた。
席上、明主様は、
「誰一人として私の言葉を素直に実行した者はいませんでした」
「しかし、ここに例外がありました」
と、少し大きな声で、信徒たちの顔をのぞき込むように仰せられた。
「みなさん無理と思うでしょうが、笊で水が汲めるんです。容器を用意して、そこに笊で汲んだ水を入れるのです。一回の量はわずかだが、五十回、百回と繰り返せば水は汲めるんです。それを実行した人は渋井さんただ一人です」
笊で水を汲むことに謎解きはなかった。明主様は、ごく当たり前のことを当たり前に説明されただけであった。大事なことは、總斎が明主様の言葉に寸分の疑いをはさまず、ひたすらお言葉に従って無条件で明主様のみ心を受け実践したことである。「五六七会」の信徒たちは一切自慢話をしない普段の總斎の態度と相まって、明主様に仕えることの本当の姿勢を深く心に刻み込んだのであった。笊で水を汲むことが可能か不可能かを理性で判断することでなく、明主様のお言葉を絶対と信じ素直に従うということが重要なことであることを教えられる。
渋井總斎はまさしく"御用の人"であった。"御用"とは神の理想とする真・善・美が具わった世界を地上に実現するためにある。それは浄霊により病み悩む人を救済し、神様への奉仕、献金等によって御神業にたずさらる信仰者のあるべき姿をいうのである。これはひとり専従者だけでなく、一般信徒もこの"御用"に励むことはいうまでもない。
今日、本教における信仰者としてのあるべき姿勢、また明主様に絶対帰依するあり方を問い直す"原点回帰"が今ほど求められている時はないといえよう。この際最も不可欠なことは、私たちの先達がどのように信仰を実践していたか、言い換えればどのような姿勢で"御用"を果たしてきたかを振り返り、信仰の姿勢、御用のあり方をそこから汲み取っていくことではなかろうか。
渋井總斎の生涯をたどってみると、總斎はまさに無私の精神で明主様に仕えた人であった。だとすれば、私たちは總斎の"御用"の足跡を顧み、その真実に学ばなければならない。總斎の御用は明主様のご指示によって実践されたものであるが、それは当然神への御用であった。總斎が身をもって示した御用は、私たち信徒一人ひとりが習うべき姿として残してくれたと考えることが肝要なのである。
總斎の明主様に対する仕え方、奉仕の姿勢は、余人にはまねのできるものではなかった。それでは一体どのような姿で明主様にお仕えしていたのであろうか。残念ながら私たちの前には、すでに現身の明主様及び總斎も存在しない。明主様と總斎は霊界においてもこの世を超えた固い絆で結ばれ、總斎は明主様の御用を行なっていると推察できようが、この世の私たちはその姿のありさまをしかとうかがい知ることはできない。總斎がこの世で行なった明主様へのご奉仕の数々を追うことによって、今でも行なわれているに違いない霊界での總斎の御用を想像しうるだけである。
美術品購入の御用
明主様は美術品購入にはとても熱心であった。資金不足で思うようにいかずお困りの時もあったようであるが、どうしても入手したい名品を美術商が持参すると結局購入することを決意された。名品、逸品の海外流出を防ぎ、美術愛好家だけでなく多くの人びとを楽しませるために、どんなことをしても入手された。初期にはその代金のほとんどは總斎から届けられたのである。
当時、明主様が起居されていた熱海・清水町別院の近くに、總斎は熱海の布教拠点としての自宅を早くから購入していた。明主様はそのような場合、夜八時頃よく總斎をお呼びになられ、
「よい美術品があるのだが…」
と、ご相談された。
当然、總斎をお呼びになって話されるくらいだから、たいへん高価な美術品である。しかし、總斎はどのような時でも、いかに多額であっても快く承諾し、地方を飛び回っては期日までに必要な額を届けるのである。夜であればいつも總斎は着物姿であったのだが、明主様が總斎をお呼びになる時には、サージの紺の前掛けをして明主様の前に参上した。總斎は公私にかかわらず明主様に会う時は、明主様にお仕えする気持ちを忘れず持ち続けるため前掛けをしていた。
總斎が明主様に捧げた物質的な奉仕は、他に類を見ないほど桁外れな大きさであった。もっとも身も心も明主様に捧げ尽くしていた總斎であるから、この世でできる経済的、物質的なご奉仕は總斎にとって人間として限界を超えると思われることでさえ、当たり前のこととして喜んで行なったのである。
例えば、昭和二十七年、明主様は海外流出の危機のあった「樹下美人図」(重要文化財・MOA美術館蔵)をたいへん高額で購入された。この御用を承ったのも總斎であった。この時すでに總斎は教団の一線からは身を退いていたのだが、このような御用ができるのは總斎をおいては他に誰もいなかったのである。熱海の梅園の西山麓に広がる、二万坪の總斎の所有地を売却し、その代金を明主様のお手許にお届けし、その御用に充てたのである。
明主様が必要とされ、望まれたものは、神様の思し召しと確信し、どんな困難があろうとも總斎が全力を尽くし手に入れた。また不思議に總斎の許には金品財宝が集まった。当時の信徒はまさに教団にとって大黒様であったと述べている。
献金
昭和二十年から二十四年までのことである。この頃、宝山荘では、地方からの献金を計算するのは、たいへんな手間のかかる御用の一つであった。
「五六七会」の幹部が毎月末日に宝山荘に集まって、それぞれ地方開拓をしてきた結果を總斎に報告し、また次の一ヶ月間の總斎の出張計画の旅程を全員で協議する。そして「おひかり」「御神体」「御書体」等を特別に作った「御神体」用の袋に収めてお供して開拓布教に出かける。帰る時は信徒からの献金をリックサックにつめて帰ってくるのである。会計責任者に報告書を出すものの、あまりに多いので数え切れず、また金庫にも入りきらない。そのため宝山荘の奥の障子一枚で仕切られた部屋に、リックサックから取り出しては机の上に山と積み上げていた。何しろ五百万から六百万円、時には一千万円を超えることもあった。そのお金を整理し、百円札を五千円単位の束にして積み重ねる作業をしていくのである。この札束がまるで煉瓦のように見えた。そしてまた、それをリックにつめて教団職員が明主様の許にお届けするという手順になる。それでいて、金勘定に間違いがなかったということは、今のように専門家がいたわけでもなく常識的な感覚から考えると不思議な話であった。これは、喜びを持って總斎以下の奉仕者たちが、ただ一筋に明主様に対して誠を捧げ御用に勤しんでいたからではなかったか。
ある時、總斎は信徒から、
「献金はどういう心でさせていただいたらよいのでしょうか」
と質問を受けたことがあった。
「この世の中はすべて観音様(大神様)のものなんだよ。だから働いて得たものの中から必要なだけいただいたら、残りはみな神様にお返しするのが本当だろう」
と答えた。これが献金させていただく心であるとすれば、總斎は明主様こそ神幽現の三界を救う主神の現身と固く信じ、自らのすべてを捧げ切る固い信念を持っていたと思われる。
さて、總斎には地方の信徒から預かった献金額が報告されるだけで、手許には一円たりとも残すことはなかった。それが明主様の美術品の購入、聖地用地の購入、造営費等に充てられた。また總斎の主宰する「五六七会」の小田原別院、二十世紀社(現在の熱海駅前ビルの前身)、清水町別院、大観荘(箱根・祖霊舎)、光雲山道場(信徒宿泊施設)、咲見町道場などの施設建設や土地購入に役立てたのである。
また、当時すでに教団の信徒子弟の教育に配慮しなければならないと考えていた總斎は、小田原の普通高校を購入した。当時、経営に破綻をきたしていた学校法人の理事長から援助を依頼されたからである。總斎は宗教色をまったく出さず教団の将来を考え学校経営に参画した。しかし、経営も軌道に乗った頃に法難に遭遇し、実現への道半ばにしてこの教育事業は潰えた。
これらの献金は、使われた目的、用途はさまざまであるが、それはすべて教団の発展への重要な布石であり、またその結果が今日の教団の経済的な基礎となっている。